4一対一の対応の技術-6飴は何?鞭は何?

飴と鞭という言葉の意味

子どもに言うことを聞かそうという考えは、どうしても教育している側、世話をしている側からは湧き上がってきます。これは別に自分の言うとおりに動くような機械になってほしいと望んでいるわけではありません。子どもが次からは注意されなくても自分で考えて上手く行動できるようになってほしい、という意味です。単にその場だけを上手く切り抜けられれば良いということではないのです。

飴と鞭という言葉もあります。しかしこれも言葉だけです。今時に本当にアメで釣ってムチで叩いて教育する人はいないでしょう。これはオペラントという言葉で説明ができます。上手くできた時に本人にとってうれしいことをしてあげ、失敗した時には本人にとって嫌な対応をするのです。その強さや程度、手段による違いがあるだけで、基本的に人に物を教えるという事はこの繰り返しです。

それは本当に鞭なのか?

その中で本当に叩いて教育しようとする人がいます。世間で言うところの体罰です。もちろん他人への暴力は法的にも社会通念上でも禁止されています。でも体罰を行う人は探せばいくらでも出てきます。

その人たちの言い分は九分九厘こうです。「だって叩かなきゃ言うこと聞かないんだからしょうがない」です。これは体罰に頼らなければ教育ができません、という言い訳と同じことです。先生と呼ばれる立場の人達は、言ってみれば教育のプロです。素人なら体罰に頼らなければいけない様な場面でも、体罰無しで導ける人間がプロなのです。(もちろん素人なら体罰に頼っていい理由はどこにもありません)

体罰に頼る人間は総じて教育的な知識が薄く、技術も全く伴っていないことが多く、体罰の効用についても理解していません。事の善悪をさておいて心理的に体罰を見てみると、その場しのぎの静止には若干効果があるものの、長期的に見れば大きなマイナスで教育効果は全くなく、単なる不信感しか生まないことになります。

では飴と鞭のムチは何を使えばいいのでしょうか。答えは簡単です。真似をされても困らない、相手が嫌がることを考えるのです。真似をされても困らない、というのは一つのハードルです。体罰はもちろん、罵倒や暴言、生命や健康に関わる放置や虐待がここで除外されます。通常は一定の時間かまわないことや、理由を告げて怒って叱る事、罰当番のようなペナルティを課すことが使われます。言うまでもなく、ムチは大人側のイライラを発散させる道具ではないのです。

これで気付いてもらえたでしょうか。ムチを使う人間は、その人に嫌われたり叱られたりすると困る、という立場でないと効果がないわけです。普段から無愛想な人が無愛想にしても効果はありません。まずは自分が好かれる人間になり、その人に嫌われると困る、という状況を生み出してください。

それは本当に飴なのか?

逆にアメは深く考えなくても色々と思い浮かぶでしょう。本当のアメやお菓子、抱っこしたり甘えさせたり、ご褒美をあげたり、どこかへ連れて行ったりと、例をあげればきりがありません。しかし少し待ってください。ここで一つ問題点があります。アメはもらえる事が日常になってしまえばアメの役割を果たさないということです。

私が知っているケースで、本当に言うことを聞いたら一個アメをあげることにしている家庭がありました。もちろん、主食並みにアメが毎日出てくるわけですから、たいしたありがたみもありません。しかしある日アメをあげることを打ち切ってしまうと、今まで当然のように貰えていた物が貰えないので子どもは怒って言うことを聞かなくなるだけです。しょうがないので、またアメをあげて言うことを聞いてもらうのですが、それ以上の教育効果はアメでは無理です。これ以上アメを大きくしようが、美味しくしようが効果は変わらないでしょう。どうしようもない悪循環です。

当たり前のことですが、子どもへのご褒美は本人の頑張りと出来たことから、現在の能力を差し引いて良く考えてから与えてください。出来て当然の事へ必要以上のアメを与え続けなくて済むようにしましょう。子どもにとってのアメは数えていけば意外と少ない物なのです。

なぜ効かないのか?

子どもが言う事を聞かない、という場合は大抵アメやムチ、その使い方を間違っているからです。基本は出来ない時に叱るより、出来た時に褒める方を優先することです。大人でも同じです、やらないと嫌なことが待っていることを渋々とやるのと、やったら楽しいことが待っていることを喜んでやるのは、決定的な差があるのです。なるべく嫌な事を味あわないで済むように、出来た瞬間を狙ってすばやく褒めましょう。そして出来る機会を増やしていくことです。

次にそれが本当に効果のあるアメやムチなのかを考えることが必要です。子どもにとっては既に飽きてアメではなくなっていたり、子どもに大人への依存がないため(好かれてないため)にムチとして「先生そんな子は嫌いです」と言っても効果が全くないことも考えられます。

線引きの重要さ

今まで具体例をあげていませんでしたが、出来た時、出来ない時というのはどういうことでしょう。中間はないのでしょうか。

食事を例に取りましょう。ご飯をきちんと待っていられたが、いただきますを言えなかった。惜しいですね。いつもより上手に箸を使って大きな芋を口にいれようとしましたが、中々噛みきれないでいる内に芋が落ちてしまいました。これは褒めていいのか叱った方がいいのか。途中までは好き嫌いせずに食べることができたが、最後に飽きて手遊びを始めてしまった。このような場合はいったい、褒めていいのか叱ればいいのか微妙です。

最初に考えなければいけないのは、子どもが自分の能力以上に頑張ったところ、出来るはずなのに失敗したところをきちんと見分けてあげることです。これが全ての基準です。そして食事全体の評価を下す前に、個々の頑張ったところを褒めてあげましょう。そして出来なかったところを注意します。最後に次回の食事での気をつける所をアドバイスして、最後に食事全体を褒めます。これは全体としてはおおむね合格という意味ではありません。頑張ったところが一つでもあるので褒めているわけです。最初から最後までやる気がなかった時には、もちろん叱ります。

わかりやすい線引き

できるできないの基準、見分け方のルールを子どもは理解しているでしょうか。それは評価される中で子どもの中に基準が出来ていきます。そしてルールは子どもの成長と共に変化していきます。これは言葉できちんと子どもに伝えなければなりません。昨日までは食べ物を口に入れさえすればオーケーだったものが、今日からは下に落ちた物を拾って食べてはいけない、テーブルの上に落ちた物はセーフになるかもしれません。もちろん最終的には皿以外の所に落とすこと自体がアウトです。

子どもにとってわかりやすい線引きの説明は、時によって子どもとの議論に発展することもあるかも知れません。一見すると子どもの言い訳のようにも見えますが、これを聞き逃さないようにしてください。子どもの言い訳は、子ども側から見た自分の能力の限界、偶然による出来事かどうかを指しています。偶然だと言うならば偶然に左右されないやり方を教え、能力の限界だと言うならばもう少しハードルを下げたルールを考えればいいのです。

繰り返しの重要さ

言うなれば子どもの時の行動は全て大人になる前の練習期間です。繰り返し繰り返し、根気よく練習をしてもらった方がよいでしょう。どこまでが子どもの理解力不足で、どこからが子どもの器用さ、習熟度の不足なのかをよく見てあげてください。つまりやるべきことを判ってないのか、ただの練習不足なのか、ということです。

どうすれば上手くできるのか、やりやすいか、どれが正解なのかを教えたり説明したりする事は出来ます。しかしそこから先は練習して繰り返していくしかないのです。こちらは子どものモチベーションが下がらないように励ましてあげる事しか出来ません。

つまり飴と鞭でいえば後半はムチが出る機会は全く無いということです。説明や線引きを見分ける段階では飴と鞭を使い分けてもかまいませんが、その後のムチはただのやる気を削ぐことにしかならないのです。

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