1基本の中の基本-1子どもの発達


本能はどこまで?

母子ともに大変な苦労の末に乳児は誕生しました。そしてお腹がへれば泣く。お乳のような物を前にすると乳首を捜して吸い付く。満足すればやめる。眠くなれば寝る。ここまでは生まれつきの本能(持っている力)としてよく知られています。さて、その他の一体どこまでが生まれつき持っている能力で、どこから先が生まれてから学習する事柄なのでしょう。多くの研究者が現在もその境界を探っていますが、多くは一見本能に見える行動も、短期間のうちに学習した能力である可能性があるといわれています。

一例として乳児は眠くなれば寝たいのですが、寝方がわからずに泣き出してしまうことがあります。眠るのにちょうどいい姿勢がわからなくて、眠り方がわからないのです。この時は姿勢を色々と変えてやることで、自分にあった姿勢で眠ります。慣れてくれば自分でその姿勢を探して眠れるようになります。

また、お乳やミルクを飲む時も、最初は加減がわからず飲みすぎて吐いてしまったり、つかれて飲むのを止めてしまって空腹でイライラする事などがあります。これも最初のうちで、じきに自分のちょうどいい量を学習していくことになります。

乳児

さて、生きていくための最低限、眠りと食事は確保しました。次に必要なのは排泄や寝返りですが、その前に乳児側からの視点で考えてみましょう。

乳児が外界に対してできることはなんでしょうか?現在の所は乳児が外界に送れるメッセージは泣くことだけです。笑いについては、初期の笑いに見える表情は好ましい時の筋肉の反射だといわれています。それが笑いというメッセージとなって外部に好ましいという印象を与えるのに乳児が気づくのは、まだ後になってからのことです。

不快な感情について、乳児は泣くということでしか外部にメッセージを送ることができません。だから周りの人間は、それが空腹のサインなのか眠りのサインなのか、なかなか判断できません。そして、その上に排泄物が体にまとわりつく不快感や、同じ姿勢でいることへの不快感などを、同じ「泣く」という動作で自分の感情を表すようになってきます。

体と心

この段階では、まだ心と体をはっきりと分けて認識しているわけではありません。心地よいものは全て「快」、嫌なことは全て「不快」です。体のどこかが痛い時も、気分的に寂しくてイライラしている時も、嫌な事は不快な事として泣く行為で表現します。

そして顔の笑う表情、エヘヘ、アハハ等の笑い声が快の表現として定着してきます。これをやった時には、次から同じこと「快」に属することをしてもらえる機会が増えると学習するからです。これで外界に向けてのメッセージが二つになりました。泣く事と笑う事です。

乳児はこの二つの記号を駆使して外界(主に母親)に働きかけます。逆に周りの人間は夜に沢山眠れば褒めて抱っこして上げたり、触ってはいけない物に触れば怒って不快な思いをさせたりして、相手の行動に応じた快と不快の刺激で少しずつ学習をすすめていきます。こうして立って歩くことや、言葉を喋ることが可能になっていくのです。

幼児

ここでは細かい一つ一つの成長には触れずに、立って歩き、言葉が喋れるようになった場合を考えてみましょう。幼児は、この時点でもう一人の(はっきりと確立してはいないが)人格を持った人間です。小さな大人として考えてもらってもかまいません。

赤ちゃんから子どもへ。この変化の意味は重大です。一年ちょっとの間に急速な身体能力の変化、知能の発達が起こったように見えます。この時点で周りの人間たちは、その成長に喜びながらもとまどうことになります。急激な変化が起こったように見えるからです。しかし、それは前々から乳児の中でゆっくりと起こっていた変化で、それが目に見える形になった、ということです。

子どもは自分の話す能力がアーやウー等の単語にもならないうちから、周りの人たちの話し声を聞いて育ちます。それが自分が出している声と同じものだと認識した時から物真似が始まります。しかし声帯の使い方の慣れや、声帯自体の発達過程によって中々上手くいきません。それができるようになった瞬間から次々と言葉を喋ることになります。

個人差

各発達の段階は、もちろん子どもによって個人差があります。それは重大な障害などを除いて、あまり気にする必要はありません。発達の段階、それぞれの分野でも子どもの個性があるのです。(障害が気になる場合は一度大きな病院で事情を話して検査してみましょう。大抵の場合は正常の範囲内だと言われるでしょうが、それで保護者が安心できるなら良いことです。また異常が見つかっても適切な治療、アドバイス、関連施設の紹介など、子どもの将来に向けた改善策がわかることでしょう)

先にあげた言葉の発達段階で考えてみましょう。本人は単語だけでなく長い文を喋る気満々なのに声帯の発達が遅い場合は、何を言っているかわからない言葉の羅列が出てきます。逆に声帯が発達していても、それまでに聞き覚えた言葉のサンプルが少なければ、はっきりと一つ一つの単語から話しはじめることになります。これは数週間から数ヶ月の誤差はありますが、言葉を喋るということ一つとっても個人差のあるプロセスを歩むことを意味しています。

では歩く場合はどうでしょうか?歩くためには想像以上に複雑な要素が絡み合って動作が形成されます。遠くにある物への興味、室内の三次元的認識、自分の体重を支える足の力、腰の回転運動からくる前方への運動、足を踏み出した際の転ばないためのバランス制御等などです。

これらの数々の能力の形成は個別に出来上がって行きます。その結果、ハイハイだけが凄いスピードでなかなか立とうとしない子ども、立ちあがれるが前に進めない子ども、走り出してはすぐに転ぶ子ども等、子どもごとに発達の仕方においても差があるものです。他の子どもに比べて一喜一憂する必要はありません。

各能力の差

話すことや歩くことの動作単体をとってみても、これだけの差が個性としてあるわけですから、生活の上で食事の段階や会話、運動、人見知り、物覚えなど、様々なことで一人の子どもの中でも発達段階に差が出てきます。

差があること自体は問題ありません。それが子どもの個性というものです。ただ問題になるのは周囲の人間が、その各能力のアンバランスさをきちんと認識しているかどうかということです。

例えば子どもに走る能力がととのったとしても、それに合わせて自動的に危機認識や注意深さが身につくものではありません。外でいきなり走り出して転んだりぶつかったりするのは、そのアンバランスさのためです。噛んで飲み込む動作ができるからといって、食べていいものと悪いものの区別がすぐにつくわけではありません。タバコや粘土や電池、危険物などの誤飲、誤食に充分に注意しなければなりません。

就学まで

新たな能力が身につけば、それに伴い新しく注意すべきことが増えていきます。それは成長が続く限り繰り返される問題です。周囲の教育と本人の失敗成功を積み重ねた学習が、自分自身の能力を作り上げていくのです。

ある程度の立って歩く、走る、物を掴む、持つ、絵を描く、字を書く等の身体能力。見て知覚する、聞いて理解する、会話が成立する、ルールがわかる等の心的能力がととのってきた頃、小学校にあがり本格的な「教育」が始まるわけです。

しかし、ここまでに得た能力は過小なものではありません。この基本的な動作、能力を使って子どもたちはこれからの学校生活、社会生活、人生そのものを過ごしていくわけです。就学までの学習によって得た能力は、いわば長い人生を無事に乗り切っていくための最小限の道具、武器を手に入れることだと考えてください。そうすれば乳幼児教育の重要性が理解してもらえると思います。

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